yukizawasyougoのブログ

仕事についての思い出

憧れのウオルト=ディズニー

 憧れのウオルト=ディズニー

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娘からのお土産

私が将来の仕事について考えるようになったのは高校2年生の時でした。

中学3年生の頃から写真の現像技術を独学で覚え、将来は「副業」として写真屋さんをやるのも悪くはないかなと、思っていた程です。ですが副業はあくまで副業で、本業は別だと考えていました。

しかし、高校時代も含めて、ずっと野球をしていた私は甲子園を目指す球児でもあったのです。当時は目の前の練習や大会に追われて、将来を考えることからは敢えて目をつぶっていたのも事実でした。

その頃TVで三菱ダイヤモンドアワーという番組があり、力道山が大活躍するプロレスとウオルト=ディズニーの作品「ディズニーランド」が隔週で放映されていました。

 

新たな世界を見せてくれたディズニー

「ディズニーランド」では4つの世界があり、ウオルト=ディズニーが自ら出演して解説する4つの国、「未来の国」「おとぎの国」「冒険の国」「開拓の国」が週を変えて放送されていました。

プロレスが見たくて視聴を始めた時間帯でしたが、そのうちこのディズニーランドを楽しみに待つようになって行ったのです。

中でも「冒険の国」の内容にどんどん惹かれていく様になっていました。それは大自然の中で生きる人間や動物の物語でした。特に野生の動物の生涯を追ったドキュメントタッチの映像に心惹かれ、感動を覚えることが多かったものです。

物語のストーリーを創り上げる、決定的なシーンを辛抱強く待って撮影しているであろうスタッフたちの粘り強さと構成力に、いつしかこういう仕事に携わることができたらいいな、と漠然と考えるようになっていました。

時は1964年、東京オリンピックの年に私たち野球部は、前年の活動の評価を受けて、「聖火リレー」の一区間を担当することになりました。聖火を持つのは一人、私を含めた十数人は「随走者」として聖火の後ろを走る役です。静かに、しかし、沿道の大きな歓声を受けながら私たち走りました。オリンピックの一分野で協力したという実感はあったことを覚えています。

終了後トーチを右手に持って、髄走者も一人一人が記念撮影をしました。その写真と胸に日の丸とTOKYOの文字の入ったランニングシャツはしばらく大切に保管していました。

 

ウオルト=ディズニーにラブレター

その年の秋、野球を続けながらもそろそろ将来の進路を決定しなければならない時期になりました。

TVでドキュメント番組の制作に携わりたいと思っていた私は、直接ディズニー氏に手紙を書いたのです。以下はその要約です。

「親愛なるウオルト=ディズニー様

 私はTVであなたたちが製作した自然界のドキュメントに大変感動を受けています。将来、そのような仕事をしたいと願うようになりました。私は現在日本の高校2年生です。卒業後あなたの元で、そういう映画製作に関わりたいと思っております。どうか私をあなたの会社で雇ってもらえないでしょうか。」

という内容でした。拙い英語で書いたのです。今思えば、よくもまあこんな厚かましい文章が書けたものだと思えます。この手紙には、聖火リレーの時に撮ったあの写真と、高校の制服姿、そして野球でバッターボックスに立った時のTV放送の写真を同封しました。TV放送の写真は当時まだ録画ができなかったので、級友が学校を休んで撮ってくれたものです。

しかし、ディズニー氏からは何の音沙汰もないまま、その年は終わりました。

明けて1965年2月にアメリカから航空便が届きました。一目見て、ディズニーの会社の封筒だと分かりました。メアリー・ポピンズのイラストが入った封筒です。急いで封を切ると、中からウオルト=ディズニーの秘書からの手紙が入っていました。

「あなたのお手紙を拝見しました。ですが、ディズニー氏は大変お忙しい方でして、あなたのご要望には応えることができません」

という内容でした。

私は拒否されたことにガッカリするより、あのウオルト=ディズニー氏が私の手紙を読んでくれたこと、そして秘書を通じてではあるけれども、返事をくれたことに大変感激したものです。

このことがあって、私はますますディズニー氏が好きになり、必ずディズニー氏に会いに行こう、そしてカリフォルニア州の広大な土地に1955年に造られた「ディズニーランド」に行く決心をしたのです。

しかしウオルト=ディズニー氏は私が大学在学中の1966年12月15日に亡くなってしまいました。65歳でした。

もうディズニー氏には直接会えなくなりました。それでも彼の切り開いたドキュメント映画の仕事をしたいという気持ちに変わりはありませんでした。

夢とロマンを求めて

大学卒業まであと1年という時に、私は職業の選択に迫られました。専攻は工学部の電気工学だったので、当時はコンピュータの世界か、工業高校の教師というのが最終的に考えた道でした。ディズニーの世界に入るには英語力が足りなかったので、仕事をしながら英語力を付けようと考えました。

今なら、ITの世界に入って、コンピュータグラフィックの技術を磨けば、映画の世界で活躍できるという道がありますが、当時はそんなことを知る由もなく、考えていたのです。

最終的に私はこう考えました。コンピュータの世界に進めば、自分が機械の一部になってしまいそうだ。それよりも人間相手の方が、ディズニーの冒険や開拓者の世界につながりそうに思えて、結局教職の世界を選んだのです。

しかも日本国内で開拓という言葉に縁があるのは北海道です。蝦夷地の開拓使屯田兵の世界はまさにそういうロマンや困難さを含む雰囲気が感じられたからです。幸い採用試験に合格し、北海道の公立工業高校の教師として勤務することになりました。

新たな冒険とロマンを求めて

1983年4月15日東京ディズニーランドが浦安にオープンしました。この時、私が思ったことは、アメリカまで行かなくてもディズニーの世界を味わうことができるのだ、という喜びでした。

この頃私は工業の免許の他に数学の免許を取得し、北海道の僻地の高校で数学の教師になっていました。冒険とロマンは田舎の地にあり、多分ディズニー氏に相談したらそれを肯定してくれるだろうという勝手な想いもありました。

ただ、この地で私は結婚し、男女二人の子どもに恵まれました。そうなると、冒険とロマンの世界から離れた所で生き方をしているという、寂しい気持ちも持つようになって行ったのです。

しかし、私はここでディズニーとつながる冒険とロマンの世界を見つけたのです。それは生徒に教えられた世界でした。

その地は縄文人の遺跡が数多くある場所だったのです。生徒に相談を受けて、「郷土研究部」という部を立ち上げました。

縄文時代というのはご存知のように、諸説はありますが、概ね今から16000年前から3000年前の時代を言います。その頃に住んでいた人々の竪穴式住居跡や、土器・石器が多く発見され、町の資料館にもそれらが展示されているくらいです。

Tという生徒が中学時代からそれらに興味を持ち、高校で是非その研究をしたいからと、申し出て来たのです。これこそ冒険とロマンの世界ではないか、私は彼の情熱に打たれ、納得したのです。

活動は主に、遺跡があったと思われる場所で「表面採集」を行います。わが国には「文化財保護法」というものがあり、「埋蔵文化財」も勝手に発掘したりはできないことになっています。だから活動は土地の表面に「落ちている」土器のかけらや石器を拾う作業、すなわち「表面採集」をするのです。

土器のかけらをたくさん見つけた場合はそれらを接着剤でつなぎ、壺や皿などの形に復元することができます。土器の表面は主に縄目を入れたものが多いのですが、裏面には当時の人の指の形が残っていることがあります。数千年前の人がどんな想いで造ったのだろうと思うと、まさにそこにはロマンが感じられます。そんな楽しい活動でした。

 

ディズニーに近づく?

郷土研究部の活動と共に、趣味で8ミリ映画の撮影を始めていました。同時に録音技術も取り入れ、音声付きの映画を作っては生徒たちに公開していました。主な狙いは我が子たちの成長の記録と、生徒たちの行事での記録を撮ることでした。この頃から8ミリ映画もカラー化が進んでいて、私もほとんどカラーフィルムで撮影するようになっていました。

そこで私は町で遺跡の保存と紹介を進めていたSさんの助言を受けながら、郷土研究部の生徒たちと、町内の遺跡を8ミリ映画に記録することにしました。

生徒たちの表面採集の記録、土器の復元、石器を使って肉を切る実験、遺跡の状態、土木業者による遺跡の破壊等を記録して行きました。これこそ、ドキュメントの世界だと感じたものです。ディズニー氏が生きていたらこれを報告したい、と考えて一歩でも彼に近づきたいという想いを持つようになり、再び冒険とロマンの世界へと進んで行く想いがありました。

年に一度、高等学校文化連盟の大会があります。郷土研究部は「町の遺跡の現状」としてその8ミリ映画を上映しました。もちろん音声付きです。結果、優秀賞を取り、全道大会でも発表したのです。全国大会まで行けると思ったのですが、それは叶いませんでした。

その代わりに「高校生の8ミリ映画コンクール」という全国規模の大会にこの映画で応募しました。これは「審査員特別賞」を取得し、北海道新聞にも取り上げられたのです。しかし、このことは町の教育委員会からお叱りを受ける結果となりました。町の遺跡が破壊されているという印象が強かったというのがその理由です。映画のラストでは「開発か保存か、それが私たちの今後の課題です」と明確に挑戦するナレーションを入れたことも大きかったと思われます。

お叱りを受けても、その事実を伝えるという行動は何ら恥じることはないと私は考えていましたし、Sさんもそれを支持してくださいました。ディズニー氏もきっと応援してくれただろうと、勝手に想いもしました。

ディズニーランド

ある年の修学旅行のコースをどうするかと、とうい話し合いがありました。それまでは修学旅行と言えば、京都・奈良・東京というのがお定まりでした。

しかし、この頃から東京ディズニーランドに行くことが人気のコースになり始めていました。当然私はディズニーランド大賛成でした。ずっと憧れてきたウオルト=ディズニーの世界を堪能できる「夢の世界」なのですから。

そして1985年、私は「引率者」としてついにディズニーランドの地に立ちました。

アトラクションに行きたいのは生徒以上でしたが、引率である以上、務めがあります。

旅行のすべてを案内してくれる添乗員から「引率者の部屋」に案内されました。生徒に何かあったら、最初に連絡が届く場所です。そこには他の学校の引率者がすでに10人ほど座っていました。座席に余裕がなかったので、私は奥の部屋へと案内されました。

案内の女性がその部屋の扉を開けた途端、私は全身に鳥肌が立ち、思わず「ワーッ!」と叫びました。正面の奥にウオルト=ディズニーの大きな写真が飾ってあったのです。驚いた顔をしていた女性は、私の説明にニッコリとして、「どうぞ心ゆくまでウオルトと会話をしてください」と言ってくれました。

懐かしい顔がそこにはありました。ずっと座っていました。

あっという間に交代の時間が来てしまい、同僚と代わりましたが、そこを離れがたく「カリブの海賊」だけを楽しむとすぐに戻ったほどです。

 

こうして私は長年の夢のほんの少しだけ実現した想いを持って、あの頃を振り返ることができるのです。引率者でなければ、あの部屋には入れなかったでしょう。そうでなければ、あの部屋の存在を知らずに生きてきたはずです。

 

今は「先生たちも、生徒と同様に、ディズニーの世界を楽しんでください」という基本的な考えから、「引率者の部屋」はありません。しかし、あの部屋にはきっと今でもウオルト=ディズニー氏の優しい笑顔があるはずです。